源平屋島合戦

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香川県高松市屋島

平安時代の末期、「源氏」と「平家」という武士の集団が争いを繰り返していた。その古戦場の一つが香川県にある屋島周辺であり、この地で行われた戦いを「屋島合戦」という。この二つの武士の集団が戦うようになったのは、朝廷の政権争いに端を発する。1156年におこった「保元の乱」では、後白河天皇と兄である崇徳上皇が対立し、源氏と平家も兄弟や親族が分かれて戦うことになった。その結果、崇徳上皇は讃岐(現在の香川県)に流され、瀬戸の海をのぞみ恨みの日々を送ることとなる。1159年には、「平治の乱」がおこり、源氏は敗退し平家の世となるが、やがて追われる立場となる。そして、歴史の表舞台に源頼朝と義経という源氏の兄弟が登場する。源氏の大将である兄の頼朝、その兄のために平家と戦う弟の義経。義経は、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と、当時においては斬新的でダイナミックな奇襲戦法で、戦いの天才として歴史に名を残すことになる。その義経が、もっとも輝いていたのが、この戦いの日々であった。平家は屋島に内裏を構え、目の前に広がる瀬戸内海から、敵が押し寄せてくることを予想していたが、1185年2月19日、陸地から予想だにせず源氏の火の手が上がった。ふいをつかれた平家はあわてふためき、大軍と思い込んで船に乗り込んでしまう。その時の源氏の数は300余騎、平家は数千とも言われている。敵が少数であると気づいたときには、内裏は燃え落ち、守りの要である総門は源氏の手に落ちていた。そこで、海に平家、陸に源氏と分かれての合戦が繰り広げられる。反撃に出た平家との戦いは壮絶で、数々の戦いの名場面もこの地で生まれる。夜になり、不眠不休で駆けて来た源氏勢は疲れ果てて眠り、平家軍では夜襲の相談がされるが、先陣争いをしている間に夜が明ける。ここでも戦いの神は義経に味方した。戦いの果て、平家は志度へと移り反撃を考えるが、その作戦も義経に見破られる。こうして、西へと落ちていった平家は翌月の3月24日長門・壇ノ浦で滅亡した。その後、頼朝は鎌倉幕府を開き、明治の世まで700年近く武士が政権を握ることになる。この戦いが、日本史上屈指の大転換期となったのだ。

(看板引用)

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